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現代思想かぶれの観念論による評論が幅を利かせていた…

メディアアートは、
その大半が工学的には出来損ないの
デバイスアートであったりするわけで、
その「芸術と科学との間に位置づけられる
独立した場所」が、
実のところちゃちな技術でも通用する、
非芸術家、非専門家の駆け込み寺として
機能していた側面は否めない。
言説の場が制作における技術と噛み合ず、
現代思想かぶれの観念論の空転により、
作品の持つ技術的側面に
的確な価値判断が行われずにいたことは
大きな問題だ。

メディアアートの場合、
技術的側面と芸術的側面は注意深く分離したうえで
価値判断を行わねばならず、
評論家が技術的知識をある程度押さえ、
そこで何が試考されているのかを正確に判断する必要があった。

しかし私は、
技術的知識をある程度押さえて
評論を行うことのできる、
メディアアートを専門とした
評論家やキュレーターがいたとは思っていない。
結局、そこでは現代思想かぶれの観念論
(念のために断っておくが、私のなかに現代思想そのものを卑下する意図は全くない)
による評論が幅を利かせていた。
本来、評論が備えるべき
技術的側面と芸術的側面という両輪が
後者しかなかったのだ。

私は今、たまたま戦前戦後の記録映画と政治の関係について調べているのだが、日本のメディアアートは、今まで日本の歴史で何度も見られた急進的左翼と大衆の乖離にどこか似ている。大衆(=制作の現場と、高度化した技術?)から遊離し、マルクス主義の言辞(=ポストモダン以降の芸術論?)にてあまりに観念的な議論を行い先鋭化し、あきらかに現状にそぐわない戦略を立てて(=メディアアートの特権化?)、都合のいい恣意的な現状判断(=メディアアートは一般化した…など?)にて矛盾を抱えて自己崩壊していった急進的左翼に。

『新しいメディアとしてデジタルという技術を考え、それをもって世界を再発見すること』(藤幡正樹によるテクストからの引用 p123)

Inter Communication 最終号

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